061「禁句」10月7日
062「どこにでも」10月11日
064「些末ながら」10月22日
063「そうか」10月12日
065「やった」11月2日
066「抜きん出る」12月2日
067「物差し」12月19日
068「生き地獄」12月20日
069「損」1月19日
070「例外」2月17日


061「禁句」

親子連れがお参りに来ている。
親は線香鉢から立ち上る線香の煙を、自分や子供にかけたりして願い事を口にする。

寺ではよく見かける光景だ。

この時、煙を子供にかける時の親のセリフ、一番多いのは何だと思いますか?

「アタマが良くなりますように。」「勉強が出来ますように。」これですよ。

これが常づね気になっていた。言葉は、言うまでもなく、その人の思いを表わす。

「アタマが良くなりますように。」「勉強が出来ますように。」
これらの言い様が語るところは、次のようなもの。

・「勉強が出来るか出来ないかが、その子の価値を決める」という事を疑ってさえいない。
・「この子はアタマが悪い」と思い、本人にそう言っているということでもある。
・「なりますように。」と願望するというその事によって、現時点での価値を認めていない、不満の表明をする。

ベンキョウ出来る事ばかりが子供の価値ではない、という月並みな主張をしたいのではない。

縁あって育てる事になった子供であろう。その子供をわざわざ否定しながら育てて、何が善いのだろうか。

口に出すに値する言葉と、値しない言葉がある。

「禁句」とは書いたが、禁ずるのは何か。

語るに値しない言葉を禁じるのは、誰でもなく、語ろうとするその人にしか、その魂にしか、出来ない事なのだ。

062「どこにでも」

「分かったような事を言うなよ。」

と思うことは、時々あるけれども、

カチン、とする事もあるけれども。

自分がその言葉に、幾らかでも真実が見出せるのなら、そんな「分かったような事」でも、聞き入れてみるのもイイかも知れない。

情緒的反応が先に立つと、なかなか難しいけれども。

誰に言われた、とか、あんな状況で決めつけられた、とか、抜きにして。

「分かったような事」を言った人に、テガラがあるかどうかはともかく、そこに価値を、真実を見出せたら、それは既に「私の」真実、「私の」価値だ。

063「そうか」

ああ、そうか。


「私」の、
イノチは、
カラダは、
ジンセイは、

「私」の、メディアなんだ。

魂の、メディア。

064「些末ながら」

他の誰でもなく、「自分である」という事を強調する時によく使われる、

「自分自身」

この言葉、実際には変だと思った事ありませんか?

「自分」とは、その「身体」ですか。「自分」の「身体」ですか。


だとすると、「自分の身体」と指差しているモノは?

せめて
「自分自心」とでも言っておけば、こういう些末なツッコミも出来なかったワケでして。ええ。

065「やった」

いったん、くれてやったものは、くれてやったものじゃないか。

もう「自分」のモノじゃない。
権利だの、何だのと、ガタガタ言えばいうほど、

ほら、自分が苦しい。

 066「抜きん出る」

真善美とかいった価値を求めて生きようとすることは、本来なら他の誰のためでもなくて、単にそう生きるのが「自分」に良いというだけの事なのだろう。が、

見られてナンボ、という相対的な物言いをしてしまうのは、ちとセコイような気がしないでもないけれどもさ。

いま、老いも若きも男も女も、また、職業にも貧富にも既婚未婚にもかかわらず、だらしない人間が多いからこそ、
筋目をとおして生きる人は、より光を増して目に写る。

高貴とか。

高貴さは、本質的に、他者によってその価値を左右されたりなどしないけれども、
「高貴」とは「下卑」に対していればこそ、下劣な者が多ければ多いほど
より飛び抜けたものとなる。影と光のように。

相対によるこの事実は、皮肉といえばヒニクではある。でも、

方便でも、ある。


 067「物差し」

年をとっていること、逆に、若いことで、誇ったり、
カネや地位があること、或いは、それが無いことを振りかざしたり。

「自分は詰まらない人間だ」と言っているようなものだ。

そうやって自分に物差しをあてている「自分」は何者なのか。

068「生き地獄」

私たちが気付かないうちに陥りやすい感情。
他人と自分とを比べて幸せに感じたり、不幸せに感じたりするそのココロ。
成績、カネ、美醜、知名度、まあいろいろ。生活のいたる所で「隣の芝生は」である。

きっぱり結論から言うと、この心情は危険で、とどのつまり不幸である。

人の不幸を楽しむようになるかも知れない。
人の幸福をねたむようになるかも知れない。


人の不幸を望むようになるかも知れない。
人の幸福を破壊したくなるかも知れない。


例えば放火犯が「単に火が好きなだけであって、他人の生活や財産を傷つけるのに快感を覚えているのではない」と果たして言い切れるだろうか。

幸福さにおいて、マイナスの状態に、常に自分をおとしめる。これが不幸でなくて、何か。

ここに一人の老人がいる。彼はわりかし近所に住んでいるのだろうか、しばしば自転車をこいでうちの寺の境内にやってくる。

そこで何をするかと言えば、お参り・・ではなく、わざわざ境内を汚しに、繰り返し繰り返しやってくるのだ。牛乳パックを持ってきては境内のあちこちに捨てる。亀の住む池の中に放り込み、お稲荷さんの囲いの中に投げ入れ、木の枝の間にねじ込む。雑誌などをビリビリに引きちぎっては境内じゅうにまき散らす・・

うちの何が気に喰わないのかは知るよしもない。(本人にきいたって真相が分かるという保証もない)が、
ただはっきりしているのは、彼がこの寺の参拝環境をけがす事に躍起になっている、という一点である。
正直ムッと来るぜ。その性根を思うと胸も悪くなる。でも、それはそれ。そんなこたぁこっちの感情の問題だ。

今回は追っかけたが振り切られてしまった、しかし、もし彼の行為を再び押さえる機会があったら、

「あんた、いま、生きながらにして地獄に生きてるんだよ?気付かないの?」

とだけは、最低言っておかねばと思っている。

その哀れな男に限らない。自分が「生き地獄」に生きる人の多くは、どういうわけか(だからこそ?)その事に気付かないままでいる。

望んだにせよ望まなかったにせよ、ともあれせっかく生きてんだからさ、自分を「幸せに」生きようよ。

069「損」

持てる人はその幸せを知ろうとせず、持たざる人もその幸せを知ろうとしない。

受ける人はその幸せを知ろうとせず、受けざる人もその幸せを知ろうとしない。

070「例外」

すべての人は、一人ひとりが、例外なく「例外」。あなたも、
私も、あの人も。

・・だから?

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