041「まあ」5月9日
042「目的」5月15日
043「理由」5月19日
044「性別」5月22日
045「罪」5月24日
046「人間」6月1日
047「人脈」6月7日
048「ビジネス」6月9日
049「生命」6月19日
050「ヒマ」6月29日


041「まあ」

イヤな目に遭う時は、災難に遭う時は、遭っておけばいいんじゃないかと。

042「目的

仕事にしても、勉強にしても、もしそれらに目的があるとしたら、それはなんだろう。

「金を得る為の、生活する為の仕事」なのか。
「入試に受かる為の、成績を上げる為の勉強」なのか。

好きな事をやっていたり、遊んだりする。楽しいと思う。あれの目的はなんだろう。

あれは、他に目的がない。いいかえれば、
その事自体が目的である。

仕事も勉強も実はおんなじではないか。生活資金や受験は動機付けではあるが、目的ではない。
ある仕事に当たっているならその仕事、ある勉強をしているならその勉強じたいが、その目的なのだ。

思い出してみてほしい。良い仕事が出来た時を、面白いように勉強の内容が分かった時を。その時に果たして、その事以外の目的など意識していただろうか。

それ自体以外の目的でもって事に当たるのは苦しい。なぜなら、目的を、そこにない別の事柄に求めるその事によって、常に達成は先送りされてしまうからである。
ひとことで言えば「非現実的」なワザなのである。

あるいは、別の目的の為にそれをするのなら、それは、はしょりたいのに、仕方なしにやらざるをえない事になるからだ。という言い方もできる。
遊びでさえ、言わばそういう「不純」な目的を持つと楽しくなくなってくるではないか。

念のため言っておきますけれども、仕事や勉強の中身を選り好みせよ、と言ってるのではありません。それでは、まるっきり話が逆になってしまいます。
ここで言っていることは、まさに現状認識についての話。

今やっている行為の、その内容じたいが、その目的。

もともと、一致している。
気づかないのは、忘れてるのは、私たちのほう。

 043「理由

「私は女だから、得した。」と言う人を知っている。
「私は女だから、損した。」と言う人を知っている。

おんなじ「〜だから」なのに。

性別に限らず、家庭環境、貧富、人間関係・・およそ、その人の境遇、性格、犯罪、地位などの「理由」に、挙げようとして挙げられるものとは、こんな具合である。

その人がそうである事を、説明できはしない。
今ここですべき事を、割愛できる訳でもない。


確かに、物事には原因がある。無数の事象がかかわり合って、絶える事なくその様相を変えていく。同時にそれが原因となって、物事を生起させる。それがまた・・・
それは、無限だ。無限の流動の中で「理由」なぞ特定できる筈ないではないか。

私たちは自分がそうである「理由」を知りえない。
ただ、刻々と行為を織りなすのみ。


ならば、どのように織ろう。

いま、これを。

 044「性別

前回と似たネタになる。
あまり疑うことなく使われる
「私は女(男)である。」という表現。

男だったり、女だったりするのは「カラダ」でしょ。

「私は…」と言おうとしている、「あなた」じたいに、言い換えれば魂に性別があるのか。


「男(女)っぽい振舞い、言葉遣い。そういった身体ではない「男(女)らしさ」があるではないか、これは精神の性別じゃないのか。」そういう主張もあるかも知れない。
しかし、これらの行動様式にしても、それは躾であったり、周囲への観察と対応といった習慣によるものであろう。
習慣や癖は、「私」を感覚しない。従ってこれは魂が性別を持つ事にはならない。

ここで言おうとしているのは、なにも「男(女)として生活するのをやめよう」といった事ではない。それでは「魂は飯を食わないから、身体に食事をさせてはイカン」と言うのと同じくらいナンセンスである。だから、便宜上と知った上で「私は男(女)だ」と言っても一向に構わない。

どう言う理由か分からないけれど、生きている限りは、たしかに精神と身体は互いに対応している。しかし、ある事柄が精神に属する事なのか、身体にまつわる事なのかは、自覚しておいた方がいい。それは事実を知ろうとする行為だからである。

実は性別だけの話ではない。社会的な地位、人間関係での役割、それらが何かを顧みる事なく、
「私は○○だ」と信じるのも勝手ではある。しかし現実問題としては状況や価値観の常なる変化の中では、ずいぶん息苦しい思いをする羽目になろう。

常識を疑い、自ら問い、事実を知ろうとしてみるのも、いかがでしょう。

知っている事(或いは予感している事)と現実が食い違わない。これ、ワリといい事だと思うんですけれども。

 045「罪」

知って犯す罪と、知らずに犯す罪とをくらべたら、どちらの罪が重いのか。
つまり「悪気」「悪意」「悪であるという自覚」があるかないかで、どうちがうのか。

「べつに、悪気があってやった訳じゃないんだしさぁ…」
「知らずにやった事なんだし。」

このセリフ、
誰しも一度は聞いた事あるのではないか。

このイイワケは本当にどうしようもない代物だ。
犯した本人がそれを言うのは、反省する気がない上に、それを許せ、責めるなという、虫酸の走るような自己擁護のあらわれである。
一方、他人がそれを口にするそれは、所詮他人事だから
(確かに人は他人のする事に責任を持ち得ないのだが)、メンド臭さと相まって、心の大きさを演出しておく、という、あまり上等とはいえない言説ではある。

だいたい、「悪意」があって悪事をする者は、その自覚があるのだから、社会というシステムにおいて、その必要が要請されるのなら、スッキリ始末してやれば済む事であろう。退治ってやつだ。
(「すべき」とか「べきでない」という議論ではない。念のため。)

そもそも、生きて行為するという、動きと関わり合いにあっては、何をしても(しなくても)望まざる事態を引き起こす可能性は常にあるのだ。
(だから被害者にあっては「許し」「見過ごし」という心の働きがあり得るのかも知れないが、それはまた別の機会に。)

「じゃあ、何にも出来ないじゃないか。」そうではない。
だからこそ、自覚しなきゃ、って言ってるんだ。

いかなる悪をなす可能性があるか、を顧みずに、考えなしでそれをやってしまう、それが、アナタ、「悪い」ってこと。

「その行為は悪い」って事をもし知っていたら、そんな事はしないのが、人間なんだ。「悪気がない」から、平気で罪を犯す。

「悪気がない」ということで他人が許してくれるか許してくれないかは、それは分からないし、どちらでもいい事だ。
人を責める、という事は良い事ではない。ただ、「知らなかった」からといって、不服そうに弁解し、責めを受ける事を免れようとするなんて、もってのほかだ。また、無自覚なまま、罪を繰り返しかねない。

じつに、じつに、下劣な精神。

それでもまだ、「知らずに」悪を犯すのか。

 046「人間

しばらく前の事になるが、こんな事をたずねられた。

「人間と他の生き物との違いは何でしょうか?」

答えるに厄介である。答えようとする者自身がその「人間」なのだ。まるで「私は、この私だ」と言って自身の顔を指差しているようなものだ。その指差そうとしている者はいったいナニモノか。

あえて「人間とは?」と問う人に、他の生物との生物学的な差異、たとえば遺伝子や、形質上の特徴を挙げたところで、納得は得られないだろう。
彼(彼女)が問いたかったのが、まさにそれを問うてしまう何者か、についてだからである。容れ物は答えにならない。
(しかし、それを問いうる何者かが、決まってこのタイプの容れ物に入って「人間」と分類されているのは、興味深い謎ではある。)

容れ物(身体)の話でないとすれば、やはり中身(精神)の方を考えてみるよりなさそうだ。
…、そーねー…

精神の側については、よく耳にする言い方がある。
「人間らしさ」「人間的に〜」「人間性が、」「人間として××だ」・・・
これらの物言いで用いられる「人間」とは、なんだろう。

ここでの「人間」とは、優しさ、誠実さ、愛情、責任感があり…。真善美、言ってみれば価値の有りさま。しかしこれは、人にこうあって欲しい、という期待であって、やはり問いへの答えにはならない。
残虐な、狡い、非情な、無責任な「人間」もやはりいるわけだから。

・・・

それにしてもしかし、
人間というのは、なぜ「問う」のか。他の生き物はそのような「問い」の様式を持っているのだろうか。

また、人間はなぜ、ただの身体的快楽とは別に、ある状態を、「より良いもの」として求めようとするのか。つまり、なぜ、価値を知るのか。果たして、他の生き物は生存と快への欲求を超えて、「価値」を知るのだろうか。

「人間である」。その内容はじつに謎めいている。

おそらく、それ、は「言語」だろう。

しかしこれとて何を分かった事にもならない。

言語の外に立つ事が出来ない我々は、それが、何であるかを知らない。

 047「人脈

特にひとりひとり真摯に接しはしないが、自分の都合によって知人を使い分ける人がある。

いわゆる「人脈」を利用する人。

政治やビジネスに限定しない。個人の付き合いにだってそういう場面はある。ひと昔前の「アッシー」「メッシー」といった露骨な物言いは影を潜めたものの、そういう人付き合いをする人がいなくなった訳ではないだろう。
(かつて自分も、ある異性の人に「イヤな事があったので愚痴らせて欲しい。(でもカレシに悪いのであなたに会う気はないし、可哀想なのでカレシにはグチ言わないの。)」と言われた事があった。もっとも、その異性の魂や、その人との関係に何らかの期待をしていたからなのであるが。その自分、なんと卑しく愚かだった事か。)

ある人を(魂を)尊重してそれなりの接し方をする。そういう友人・知人が、何かのきっかけで、たまたま自分の為に汗を流す事もあるかも知れない。しかし、だからといって、それらの友人・知人たちを「人脈」と呼びはしない。

「人脈」とはそうではない。鉱脈や水脈のように、利用するのが目的なのである。

べつに処罰されるわけじゃないが、なんとも浅ましい。

また、利用しようと思って人と付き合う奴には、よくしたもので(?)ちゃんと同じような根性の人間が寄って来るんだな。政治屋やその周辺にそういうのが多いらしいのは、やっぱり似たような御仁が集まって来るからなのではないか。

そんな「人脈」とはいったいどれ程のモノか。

傍目からみて羨まれるような「人脈」(もっとも本人はそう思ってもいないだろうが)を持つ人とは、はなっから、そんなもの作ろうとも利用しようとも思ってはいない。その人にして見れば、ただ、自分なりに走って来たら、色々な友人と知り合えた、くらいのものであろう。
言い換えれば、
利用しなかったからこそ、世にいう「人脈」が出来た。

だから、というわけではないが、
「人脈を作ろう」などという、さもしい考え方はやめたがいい。

今、なすべき事を、なせ。
その魂を尊重して接したい人とのみ、付き合う。

自分が量る量り方によって、自分も量られるのだ。

048「ビジネス」

前編「人脈」について、知人(20代男、会社員)から、意見のメールを受け取った。
読んでみて感じたのは、恐らくこれは彼独自の主張と言うよりは、他にも世の多くの?人が似たような意見なのかも、という印象だった。

メールの内容は、こう。

1+1=3以上にするのが人脈だ!
ビジネス及び社会経験の無いおぼっちゃんには理解不能かな!」


なるほど、そうか。

1+1〜」とは、まさに、複数の人それぞれの得手や特性・属性によって、自分一人の能力や働きを超える「成果」を上げられるという事なのだろう。前編では、その人的関係を、手段(人脈)として求めるのか、結果そうなったのか、のとらえ方の違いについて述べた。その心性のべクトルの差異については、前話の繰り返しになるのでここでは省略する。

さて
「ビジネス及び社会経験の無い〜」のくだりである。
大学を出て、すぐさま実家の寺に勤めて寺の仕事をし、月給もらって今日に至っている私は、彼が就職した会社で、配属された部署で求められている業務をこなして給料を貰うという、彼の「ビジネス及び社会経験」を知らない。
もっと言えば、同じ「職種」とはいえ、私は、自分の勤めている寺ではない、別の寺での業務内容も、そこでの社会的関わりも知りはしない。

もとより、仕事や社会的関わりも、じつはそこで経験できる事しか、経験できないのだな。

しかし、彼はそういうつもりで主張しているわけではないだろう。

彼が強調する「ビジネス及び社会経験」とは「この不景気に物売って稼ぐ。仕事上逃げられない人間関係の理不尽なぐちゃぐちゃもあるんだ。」という事であって、それは「お前らボーサンはお気楽稼業だよなあ?」という感情による発言であろう。(この手の差別的感情には他でもしばしば出くわすが、まあ私は差別される側なので別に問題ではない。)

で、ある
「ビジネス及び社会経験」で身につく事はといえば、やはり、その「ビジネス及び社会経験」における慣れと応用なのだ。「売る」仕事も、「仏教」の仕事も、その他の仕事も、その点は変わらない。たとえ殺し屋にしてもだ。
精神力?身につく筈ないでしょ。同じ職場にも色んな精神力の人がいるし。

でまあ、結論は、彼の言う通りなのだ(笑)

私には利用する為の「人脈」作りが「よい」とは、到底「理解不能」なのである。

彼は業務をこなして、稼いで、食っている。
私も寺務をつとめて、稼いで、食っている。

ただ、違う点は、彼の価値観は、稼いで食い、他の人に認められ、目に見える富や地位を得る事、つまり
「ビジネス」を、目的とし、価値としている。確かにビジネスは偏在のもたらすものに過ぎず、多くは、もってもせいぜい100年か200年であろうが、肉体を基準にすれば充分といえる。

私は、仕事は仕事で(当然寺以外での仕事であったとしても)つとめ、稼いでいくだろうが、仮にもっと稼ぎ、他の人に認められたとしても(その事自体は嬉しい)、私は、それがその事によって、目的にも価値にもなりうるとは信じていないのである。


この差異は、「生存」自体を当然と思い、意味のあるものだと信じる心と、「生存」じたい謎に満ち、意味を超えてしまっている事を考えてしまう心との違いによる。

で、どちらが生存に有「利」かと言えば、そりゃもぉ彼を始めとする、前者
に決まっている。

でも、善やら美やら、普遍性やら、そういう「限り無く古く常に新しい。どこにもない故にどこにでもある」ものを考えようとしてしまう人も、いるには、いる。

さもなくば、ブッダもソクラテスも空海も、歴史上に存在などしなかった。
人類など、更なる戦いで、とうに滅んでいる。


>メールをくれた冒頭の君へ。
だから、すでに、きみは僕より、有利なのだから、あんまり、責めないで、おくれ(笑)

 049「生命

生命あるものを、いたずらに殺してしまったり、傷つけたりしてはいけない。

これは、確かだ。

しかし、殺して(傷つけて)いけないのは、「なぜ?」なのか。

多く耳にする理由付けとしては、次のようなものだろう。

「いのちは何よりも大切なものだから、殺して(傷つけて)はいけない。」

「自分が殺されたり、傷つけられたりしたらイヤだろう?だから自分がされてイヤな事は、自分もやっちゃいけない。」

どうなんだろう。みんなそれで、納得できるのだろうか?

私は、納得できない。

「生命は大切なもの」というのならば、それこそ「なぜ」大切なものなのだろうか。
「両親や先祖から受け継いだ命だから。」…だとして、受け継がれてない生命などあるのか。受け継がれたらなぜ大事なのか。その条件では大切に思わない者も無いとは言えまい。
もう少し踏み込んでみたとして、
「命には、魂の知や善や幸福が乗っているかも知れない。だからそれを傷つけてはいけない。」…これも無理があるなあ。なぜなら、知も善も幸福も無く生きている(と思った)からといって、その生を傷つけていいハズは無いからである。生き様に価値の有る無し(またはその思い込み)と、生存の可否とはいっさい関係が無い。(しばしば人はこれをごっちゃにしてしまう。オウムの一連の殺人もまた、その延長上だ。)
「自分がされるのはイヤ。 でも人にする時は無自覚、無頓着。」そういう人だって、結構多いし。

つまりは、
「生命を大切にするにあたって、大切にする理由・条件づけなどしてはいけない。」

大切にする為に、理由や条件がぶら下がってしまえば、その理由や条件が課されなかったり、たいした力を感じぬようになってしまった途端、大切にしなくてもよい、ということになりかねない。

「どうして?」に確かな解答がない時、我々人間の多くはなかなか堪えられないものではある。けれども、理由はやはり謎。謎のまま
無条件で守っていかなければならない事は、やっぱりあるのだ。

理由は無くとも、私たちは、命ある者をいたずらに殺したり、傷つけたりしてはならない。

生命については、もうひとつ、宿命の事実がある。それは、

ある生物が生きる、とは、とりもなおさず、他の生物(人間を含め)を殺し、傷つける事である。
食物や使役として、直接その命を奪う事もあれば、資源や富の収奪、それにまつわる戦争などで、間接に奪う事もある。

わたしたちは、他の生命の死によって生きている。
しかし、同時に、いたずらに生命を奪うのは悪である。

あなたが、自覚するにせよ、自覚しないにせよ。
われわれは、この相反をこそ生きている。

 050「ヒマ

僧侶でない人も何人かいる部屋で、兄(僧)や先輩僧と、社会の事、宗教の事についてお喋りしていた時、そばにいたAさん(僧でない)が口を開いた。

Aさん「お坊さんの考える事はやっぱり違うねー。」

へっ?
「お坊さんの」?考え?

私「ぇっ?いや…特に坊主の考え、とかじゃなくて、ただ、気になった事件とかについて、どういう事なのかなー、というくらいの話で…。坊主に限らず誰でも考えられる事だと思うんですが…」

Aさん「いやー、お坊さんはやっぱり違うなあ。私らは仕事してたりするもんで、考えたりする時間がなくてねえ。まあ。」

えええ。


坊主が「ヒマで食っていける」身分だと思われていて、その割には「僧侶志願者が増加の一途!各宗本山は出家希望者押し寄せて騒然!」とかいう噂を聞かない、というナゾの解明はさておき。(そういう理由で宗教職につきたがるのはどうかとは思うけれどね。)

あっ、それから、このエセーは「坊主」についてのお話ではありません。念のため。


なんにしても、
「[考える]のはヒマがないと出来ない。」らしいのだ。

確かに全くの無時間で思考はできない、と思う。考え始めるとハマリ込んで、気付けばずいぶん時間が過ぎている事もある。どうやら、考える事は大なり小なり時間を食ってしまうようだ。

でも、みんなそんなにヒマがないのか。休日はなく、慌ただしい仕事以外には、食事と排泄と睡眠の他に時間もエネルギーもまわせない人がいるのか。家族や身近な人の仕草や、身の回りの出来事に何かを感じたり、気になったりする事もないほど忙しいのか。
そこまで忙しければ、ほんとに気の毒だし、考えるのに心を使うヒマがないのは仕方がない。文字通り、「忙」とは心が亡ぶと書く。

大抵の人はそうではあるまい。週に1日程度は休みがあり、たまには仕事のあとに打ち上げをしたり、テレビ新聞雑誌を眺めたり、たま〜には旅行に出掛けもすれば、ある日家族や友人の浮かない顔にふと気付く。食って生存するため以外に、時間を使い、心がはたらく余裕のある人がほとんどではないか。中には超多忙の生活を送りながらも、自分の思想を本やマスコミなどで発表する人もいる。

だいたい、なんで「考えてしまう」のか。

それは「問うてしまったから、疑ってしまったから、不思議に感じたから」である。問う事なく「当然、常識、あったりまえ」と思ったら、そこから考えが立ち上がるはずがない。
また、「あれ?どうして?」と不思議に感じても、それを調べたり、人に尋ねたりして得られた答えが、答えの全てだと思い込んでしまえば、やはりそこから考えることもない。


こんな話を読まなくても気付いてる人は多いのではないか。「考えるヒマがなかった。」とは考えない自分を、時間や仕事にかずけているだけだということを。そして、これからも「考える」つもりのない表明であることを。

勤務先での仕事に追われる人も、大勢の家族の世話に明け暮れている人も、考えている人は、考えている。
年に100日の休日があろうが、仕事をしてなかろうが、考えない人は、考えない。


だから、考える人を
「ヒマ・余裕があるから。」と片付けたり、忙しく一生を送った人を「あの人は忙しくしてて、考えるヒマがなかった。」と決めつけたりするのは、なんか、違うな、と思う。(そう思い込んでしまう人自身の問題だけど。)

それにしても、
「考えてない」事をわざわざイイワケしたり、卑下させられた、と感じたり、ということは、「考える」が、何か上等なコトのように思われている、ようなのだ。どうやら。

どうしてなのだろう。

出世の役に立たない、経済的に楽になるでもない。モテる訳でもない。逆に、モテにくくなるかも(笑)

ただ、忙しかろうが、ヒマだろうが、知りたい人は、はた、と問うたものを知りたいと思うだけなのだ。

ひょっとすると「知りたい」は「幸せ」を求める原動力なのかも、しれない。いや、たぶん

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