031「占い」3月2日
032「事も無し」3月6日
033「根っこ」3月12日
034「当て」3月21日
035「空」(前編)3月30日
036「空」(後編)4月4日
037「所有」4月12日
038「権と実」4月19日
039「迷惑」4月22日
040「援交」4月28日


 031「占い

いっとき占いが大流行りしたことがあった。今でも繁昌しているのだろうか。
手相や姓名判断から、果ては「おっぱい占い」「手裏剣占い」に到るまで、色々あったみたい。
かつてぼこぼこ建てられた「占いの館」はどうなったんだろう。

ここまで読んで、もう想像した人もあるかも知れない。(ないかも…)

今日のエセーは、
「さて、占いは本当に当たるのだろうか?」

という論調だと思っただろうか。
つまり、占いで未来が分かるのかどうか?ひょっとしてインチキじゃないか占い師。


たまたま私は今以外の過去や未来を見る特別な「力」は持ち合わせてない。でも、今日はそういう、占いのホントかインチキかの話じゃない。

当たる当たらん、じゃないのだ。べつに「未来が見える」人がいたっていいじゃないか。
ただね、ついでに書いておくと、占い師に未来が見えたとして、その見えたものについての善し悪しの価値付けは、その占い師が依頼者本人に成り代わって出来るものではないのだ。
未来の生活の姿が見えたとして、それが嬉しいかイヤかは本人にしか分からないのだ。好き嫌いもあろうし、その時の気分や体調もあろう。

ここであげつらわれるのは、
占う側の問題ではなく、「占いでそう言われたから」と、そこで初めて何かしだす人。
占いの信憑性ではなく、どうしたらいいかの決定を、占いに頼って決めようとする心。


占われて幸せになろうとする、その気分によって、おそらくその人は不幸であろう。

まあなんと言うか、占いでなれる「幸せ」なんて、せいぜい科学でなれる「幸せ」程度と五十歩百歩か。


俺は何を占ってもらおうかな(笑)。

 032「事も無し

ニュースを見たりしていると、時々、ふと感じる。

「我々が生きている今というのは、つくづく悪い世だな。」


とはいえ、この「悪い」というのは、今は「昔」に較べて「悪い」時代だ、という意見ではなく、たんに「善い」に照らして悪いという意味である。

おそらく、「社会」が存在し始めたその瞬間から、いかなる時代も悪い世ではなかったのだろうか。

「そんな事はない、今の方がやっぱり昔より悪いよ。」と言う人は多いだろう。大量殺戮を伴う大規模な戦争やテロリズム、極端な物質尊重と搾取、残虐な犯罪に政官の汚職、子供の売春…など、これだけひどい状況になりゃ人の心もますます荒んでくるぜ、と。

鶏と卵、と言われるかも知れない。しかし、敢えて言い切ってしまおう。逆なのだ。あれは荒んだ精神が生み出す状況なのだ。何度でも引用する。
「人は、しようと思ったことしか、する事は出来ない」
いにしえには、原爆もサリンも、消費される為にせっせと造り出されて溢れる物資も、現代ほどの富の遍在も、たまたま人は手にしていなかった。因習によって行動を抑制されてもいたのかも知れない。

いつの世も(勿論現代も含めて)悪と悲惨の世だったのではないか。
しかしどうあれ、ある時期に生を受けた人は、その時期において生きるしかないのである。

どういう事かと言うと、結局、


「世は事も無し」。

あなたは、「自分」とは、社会や時代として生きるものではないし、
他人の人生を生きる事も出来なければ、他人の死を死ぬ事も出来ない。

世の中が、時代がああいう風であって、周りの他の人がそういう風に生きていたとしても、

「あなたは」、どう生きますか。

 033「根っこ

まあね、人にいろいろイヤな目にあわされる事はあるかも知れないけれども、

うん、イヤな事は、やっぱりイヤなんだけど、

ただ、後々まで恨み続ける、憎み続けるというのは、
苦しいし、随分メンド臭い事だね。

きっかけは人のせいでも、それでもって自分を苦しめれば、やっぱり不幸になるのは、
他でもない、あなた自身だ。

「根に持つ」

根っこにあるものは、幹から枝葉、ついには全身に廻る。あなたの魂全体に。
それは、あなたの生きざまの核となろう。


自分の根っこに何を持つか。
人生とはそれを探り続ける事ではないか。


それでも、「根に持つ」人は、そうするより仕方がないのかな。とも思う。


「根」と「恨」は字面が似ている

 034「当て

「息子の事で悩んでいるんですけれど…」
受付で、おばあさんはそう語り始めた。

聞くと、その息子(といってももう50才以上だろう)は、博打好きの父親に邪険にされたり、父親をたしなめて家を追い出されたりして以来、親元を離れて独りでやりくりしてきたそうだ。が、ときどき「被害妄想がでて」人を恨んだり、「自分の身の回りの片付けもしない」、「無駄な浪費をして」いて、どうにか「ふつうの子に」したい、のだそうだ。彼女は息子が気になって、今も時々彼の元を訪れては世話を焼くものの、うっかりした事を言うと、すぐキレてしまう事もあるらしい。実際に一度殺されかかってもいると。

彼女にきいてみた。「おそらく、息子さんに
『片付けないとダメだよ』とか『そんな無駄遣いしちゃイカンよ』とか言ってるでしょう?」
「はい」

「それでは、息子さんはあなたの言う事を聞きませんよ。」

彼が幸せでなさそうなのは分かる。彼女が息子を心配する気持ちも、他の多くの親と同じであろう。
しかし、息子の現在のありようを否定して、彼を、自分が好むように変えようとしたって、それは無理というものである。彼はそうしようと思って現にそうしているのだから、それをダメだ、ヤメロと言われて、腹立ちこそすれ、変わるはずもなかろうて。

まあそういう訳で、「げんにそれがそうである」という現実を認めた上で彼に接しましょ、とか、同じ事を言うのなら、具体的にはこんな善い言い方だって出来ますよ、とか、干渉しなくてもいいけど、それでも干渉をするのならば、干渉するに値する事をするものです…とか色々な話をさせて戴いた。

すこしばかり長い話は終わった。彼女はだいぶすっきりとして、胸のつかえが幾分とれてきた様子だった。

けれども私の方がどうもすっきりしない。あれ、間違った事は言ってないはずだがなぁ?どうしてだろ?

ああ、俺もこの人と同じように、その息子を変えさせなきゃ、と思ってしまったところがあるんだ。そして、そのために、この人の今の感じ方を否定して、変えようとしていたんだ。この俺がアカンじゃないか。

慌てて、彼女を呼び止めた。

「一番大事なことを言うのを忘れておりました。」
「え、なんですか?」

「一番だいじなことは、息子さんが変わるのを、当てにしないことです。思う程には、人は人を変えようと思って変えられるものじゃありません。その人の生きざまの責任を取れるのは、その人自身だけですから・・・当てにせず、ぼちぼちやっていきましょうか。」

彼女も、その息子も、いまの有り様が幸せでない事を知っているのだろうと思う。知ればこそ、幸せになるなり方を潜在的に知っていると確信している。

多分、当面は、スイスイうまい具合にはいかないと思う。しかし、時のはからいによって、あるいはきっかけを掴む機会もあるかも知れない。

そんな時、私は(誰が?)祈る。

 035〜仏教用語ときほぐし〜「空」(前編)

虹の色を幾つに分けるか。

と問えば
、七色、赤橙黄緑青藍紫、という分けかたが古くにはあった。でも、これが欧米の方では、三色とか五色というところもあると聞くし、更に別の地域に行けば、また違う分け方、違う色数となる事は簡単に予想出来る。
科学の目で見れば、無段階に連続して変化しているし、目に見えない波長の光もある。


なぜ「無」といわず、「空」なのか。

決まっている。無じゃないからだ。げんに、存在しているじゃないか。

そう、「存在している」。ならば「空」と言い出した、それは何だ。

そもそも、存在とは、どういう事なのか。
様々なモノやコトを見聞き、感受し、表象し、認識する、そしてそれを知覚する私が「いる」。だから「存在」していると思う人もあるだろう。
しかしそれは、どうなのか。

モノであり、コトである、それらに先立つ何かを考えられないだろうか。

ふりだしに戻る。存在、「在る」とは。

存在そのものを説明できない。しかし自ら知ろうとするためのヒントとして、例えば、デカルトの有名な箴言。(といっても、私は著作を読んじゃあいないが…)

コギト エルゴ スム
想う  即ち  在り


「自分である」という感じ、これはもぉどうしようもなく存在している。


この、まったく意味を離れ、バクとした「在る」をまずはつかんで欲しいと思う。

(つづく)

  036〜仏教用語ときほぐし〜「空」(後編)
(035よりつづき)

さて、この「自分である。」という自己意識がもたらす「存在」が、どうしようもなく果てしなく連続していて、何らつかみ所がないことに、気付きはしないだろうか。

時空を超えた広大無辺。連続と流動。

しかしふたたび「生活」の側に戻ってみると、私達は様々な刺激に対して、それを事物として認識している。「鳥だ」「○○さんだ」「汚い」「明るい」「あんなの△△じゃない」「あれ、これはこんな味だったっけ?」「この人がホントに□□君?」…。

これらの認識とは「A」という事によって、この連続と流動を
「A」と「非・A」とに切り分けようとする所作なのである。
桜の花の形の抜き型は、人参の輪切りをそれとこれに切り分けた。
つまりある物事と、別の物事との違いとは、無限の存在を、認識或いは言語という刃によって分節した切断面どうしの相対的な位置関係なのである。

けれども、我々が分節するとしないとに拘わらず、存在者は変化流動を続けているし、認識によって線引きしたと思っている所の、その位置は、無限からしてみればその「位置」そのものが意味を持たなくなる。
我々が事物を相対的に認識する時に使う物指しは、色々ある。が、それらのゼロ点とは際限ない存在において、一体どこの事なのだろう。

「○○」という言葉は「○○」という意味しか持たないけれど、「○○」という言葉によって掴んだと思っている、あれやこれは、無限にあって常に転変している。このことが、空。(「色即是空」)

逆に、

「○○である」とは、自己意識において覚知される、定義を拒む存在そのものが、空たる事によって相対的な事物として立ち顕われるという、そのことである。(「空即是色」)

私達はこだわる事が出来ない。出来ない事をやろうとする。これを「無理」という。
もとより、存在には物指しなど、目盛りなどなかったのである。


「空」という言葉を使う使わないはともかく、物事の本質的な部分について、分からない、知りたいと思う人は、いずれか、それこそ空を掴むようにその思索を歩む事だろう。

こだわったり、定義したり、
そういった相対的な、かりそめの有り様を、それと知らずにそれを追求するのも人生だし、
それら相対とはいったいどういう事なのか、という底抜けを見据えて、相対は相対として自覚しつつ生きるも人生。それはどっちにせよ本人が決めることだし。

存在やら事物やら、「である」というそれらは一体何なのか、とは、いかにも「役に立たない」話ではある。にしてはどういう訳か、洋の東西を問わず、それを見据えずにはいられなかった、有名無名の幾多の精神がある。もちろん、あなたがその内の一人になるかも知れない。


動かしようのない事実にも拘わらず、しかし語り得ぬ事実を、「騙ろう」とするにあたっての逡巡は文中からも察して頂けると思う。もっと、考えと発語を能くする人ならば、もっと精緻に語るだろうけれども…
今回のテーマは、言葉が、言葉自身の作用を言葉自身に語らせようという、そもそも無茶な話である。
無茶を承知で、いや無茶だからこそちゃんとした形にしたいと思う。

どうかあなたの感じたこと、考えかた、不備の指摘など、お待ちしています。(筆者


 037「所有

自分が、他の誰でもなく「自分である」のは、当たり前なのだけれども、
実のところ、この「自分である」という在り方というのは、どう考えようが、その理由も、それがどういう事なのかも、サッパリ分からないのである。

それはそれと、「自分の○○」というのも本当の所はよく分からない。
「自分の」財産、「自分」の命、「自分の」家族、「自分の」敵・・

ふだん生活では、そういった所有について、自覚を持たないでいる事も多いのだけれども、それこそ自分の思いに拘わらず、失ったり奪われたり、押し付けられたりするんだよね。
「これは自分の○○だ」と思ったところで、やっぱり失ったり奪われたりが無くなる訳でもないし。

いや、じつは、「自分の〜」と思う、その事によって、失ったり奪われたり押し付けられたりするんじゃないだろうか。

まあそりゃ生活するという形式の中では、「自分の」も含め「その人の」所有をある程度維持する事が求められるし、また、感情的にも自分の所有が損ねられるのはイヤである。無闇に傷つけられたり、愛する者や、財産を奪られたりしていい筈がない。

でも、それでも、やはり失うのである。

なんというか、「自分の○○」というのは、

どういう訳か、たまたま(私)の触れ得るところに巡り合わせて来た。
そんな程度のもんではないか知らん。
だから、巡り合わせによって失われる。今生の連続と流動においての、邂逅と別離。

あれは、そう、愛おしいけれども、たまたま私の許に預けられたのだ。
失ったのではない、奪われたのではない。あれは帰っていったのだ。
(
どこに?!)それは知らない。
もとより、「私の」ものではなかったのか。

得る、という事は、失う。
存在そのものからの「預かりもの」。

物についても、命についても、
その事実を認識する人は、失う時に、それ程うろたえない。

 038「権と実

このところ、政治家の小ずるい話が目につく。というか、いつでもかな。まあそれは政治家でなくってもそうだし、くだらん奴がつまらん事をするのは、当然であって、そういう事をする者がそういう者であるのは、べつに驚いたり怒ったりするにあたいしない。

また、「私には〜の権利がある」「〜の権利をマモレ!」なんてみっともない物言いは何とかならんものか。主張の鬱陶しさはともかく「私は〜をしたい」「私は〜を要求する!」という言い方をしてくれたらどれほどマシだろうか。


権力、権利、権威…の、
「権」という意味を漢和辞典等で引いてみると、
「仮の、真正でない、間に合わせの、いっときの…」まあそんな意味なんですね。すると、

「権力」> 力を振るうに相応しい人じゃないのに、なまじその地位にいるもんだから、あーあ、またやっちゃったんだなー。

「権利」> 元々、生まれながらにあるってモンじゃないけど、「とりあえず」そういう資格を認め合わないと、「社会」ちうもんはやってけないって所かな。それにしてもケンリケンリ!って主張はやっぱりうるさいね。

その地位や力や、享受するものが、元来のものでなかったり、その場にいる人がそれに相応しない事が多々ある。その形式と内容との食い違いが、道理にそぐわないさまが、「権(かり)」という名を持たせしめた。

ふさわしくない物を欲してジタバタするのは結構不幸なもんだと思うけれど、いかがなものか。(もっとも、本人はそれと知らないから、それを主張し、欲するのだろうけれど…)

「権(かり)」に対する意味は、「実」あたりであろうか。…すると、権力に対して、実力、か。

力を、利益を手にするに当たって、それが、仮の、マヤカシのものでない為には、二つの方法が考えられる。形式と内容が合致する「実」の方法。
 1.それらを欲するのをやめる。
 2.それらに相応しい人となる。

分かる人は分かると思うけれども、じつはこの二つはおんなじである。

充実」した人生、とは「実」のところ、どんなものなのか。
考えてはみませんか。

 039「迷惑


「人に迷惑をかけちゃいけません。」

そういう「しつけ」をされた人、多いのではないか。

しかし、どうもこれは生活のあり方を整える、躾(しつけ)としては、非常にマズイのである。
言うまでもないが、ことさらに人に迷惑をかけていいわけではない。

口にする人は、恐らく自覚してはいまい。あの台詞に込められている気分とは、ざっとこんなところであろう。

 
「自分が迷惑かけられたくないもん。」
これは当然とも言える欲望だ。しかし、欲望でもって躾けようとはお門違いである。

 
「ふだん自分は迷惑かけてないのだ。」
自分が生きると言う事は、とりもなおさず他の命を食らったり、他の生存を多かれ少なかれ妨げているのである。生き物が助け合う傍ら、傷つけ合って生存している事実を忘れて、普段の自分を無自覚に善良だと思い込む者は、他人の悪事を見た時に、正義の名の元にリンチへの情熱をたぎらせる。そして自分が悪をなした時の居直り。「これくらい、いいわよっ!」

 
「善悪は他者によって決められる。」
これが特にマズイと思う。裏返して「人に迷惑をかけなければ、いいんだ」と思わせるからである。自分の行動を他律によってしかコントロールしない人は、薄汚いご都合主義へ堕する可能性を孕んでいる。
つまり、「他にもやってる人がいるから」「非難されるような事でなければ」「見つからなければ」「罰せられなければ」、やっても構わない、と。あのねえ、そんな者が良い人生送れる筈ないでしょうが。
そもそも良い人生送らせるための躾であり、教育でありましょうに。

「イロイロ言っとるけど、じゃあ、どう躾けたらいいんだ!?」

そぉですねえ、まず「悪い事とは、他を害するから(迷惑かけるから)悪い」という勘違いに気付いていただくしか無さそうです。だって教える(躾ける)人が知らない事は教えようが無いもん。

・悪い事が、悪い事であるのは、どうしてなのか。
・「(ある悪い事)」を悪いと知らない場合はどうなのか。
・「悪い」とは誰に「悪い」のか。
・「悪い」事なら、どうしたら良いのか。


ちょっと
自分で考えてみましょう。


次回は、これに関連して、素人売春、いわゆる「援助交際」などについて書こうと思う。丁度いいネタでしょ?

 040「援交

ご存知(?笑)、援助交際である。売春。

(余談だが、これも自分にとっては噂の域を出ない。その現場に立ち会った事も無ければ、やった、と言う子も知らない。そんな奴おるのか?と思いつつも、やっぱりありそう、などと考えてみたり。まあそれはともかく話を進めていこう。)

素人だけど、売春、援交していることが分かった。
あなたの前にそういう子がいたとする。どうするか。

「いくら?」と訊ねるのではない(コラ)。それはイカンよ、とさとす話ね。諭す人は、親とかいった年上だけじゃなく、同じ年代の、友達でも兄妹でもいい。


この場合、「迷惑」という、ポピュラーな行動基準(つまり、広く「道徳」と思われているもの)では、恐らく歯が立たない。
歯が立たない理由は簡単だ。援交をその本人に踏み切らせたのが、まさにその「迷惑をかける」かどうか、という行動の規範によるからだ。
(詳しくは前編「迷惑」を参照)

問い詰めたら、こう答えるかも。
「客はヤリタイ事が出来てヨカッタ。あたしも好きでもないオヤジとシタ代わり、オカネ貰えてヨカッタ。親のサイフとか他人のお金を盗んだワケじゃないよっ。一種の肉体労働みたいな…誰も傷つけてない、迷惑かけてないじゃん。」

こう言うとする。
「育ててくれた親に申し訳ないじゃないか。」「親は親、あたしはあたし。親は人に迷惑をかけるな、って言ってたし、あたしは人傷つけずに自分で稼いでるんだし。親だってあたしの心配じゃなくて、世間体気にして迷惑がってるんじゃない。」と返されるかも知れない。

「手前勝手な損得勘定やってるお前みたいな奴がはびこるのは、社会全体に迷惑なんだよ。そんな奴が、子供作るな、やめてほしい。」→そういう感じ方は理解出来る。けれども、「何それ、余計なお世話。だいたい、社会に迷惑っていうけど、あんたが嫌がってるだけじゃん。」とくるかも。そもそもその、迷惑がるという、「社会」というのは「何者」なのか。

「そんなだらしない、あんたみたいなのに、いい加減に育てられて(育てられれば、だけど)、デタラメ人間にさせられちゃう子供だって気の毒だわ!」→けっこう事実ではあろう。それでも、ひょっとしたら、親のだらしなさ故に、それをバネにして、一生懸命ちゃんと生きようと考え始める子供だって、絶対いないわけじゃない。「親のだらしなさゆえに今の自分があるのよ」とか(笑)

・・・やはり他律というのは無力のようだ。

考えてみれば、人は、しようと思った事をするし、したくないなら止めようと思うもの。
その人がそれをするのは、その人が、それを悪い、と思ってないからである。

「お前が売春したって、親にも、友達にも、社会?にも、(将来生まれるかも知れない)子供にも、誰にも悪くない。彼らはお前ではないからだ。フトコロは膨らむ。ただ、売春するお前自身だけには、むちゃくちゃ悪い。」

「自分に値札をつけて、自分を換金する、卑しい精神を持つ事が悪い。誰に?って、お前にだよ。」

「悪くない、と思ってるんならそれを公言したらいい。もし出来ないのならなぜ出来ないのかを考えろ。圧力かけられて正論言えない、ってのとは違うだろ?」

「悪いと知ってたら、そんな(浅ましい)事はしない。それを悪いと知らないという事が、悪い。」

自分が気付くしかない問題ではある。しかし、もし他人がその手助けとして、口にすべきとすれば、こんなところではないだろうか。

お気付きだろうけれど、これは売春のみに限った事ではない。汚職であろうが、浮気であろうが、日常生活でのズルい事にしても、みんなおんなじ。

「自分に悪い」事を、「自分で」分かるしかないのである。

売春やってる子達にはもちろん、それを、イカン!と思っている人達にも、なぜイカンのか、どのようにイカンのか、よおく考えて欲しい。

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