021「境界」1月22日
022「マルチ」1月25日
023「質と量」1月28日
024「理由」2月7日
025「密教」2月10日
026「誇り」2月12日
027「生きる」2月14日
028「丸儲け」2月17日
029「選択」2月21日
030「百人の村」2月25日


 021「境界

「死亡宣告後 生き返る」
(1月20日 中日新聞)

自宅で倒れていた女性を夫が発見。救急車で病院に運ぶも、心臓も呼吸も停止。心臓マッサージにより心臓が動き始めるが、後に再び停止。30分にわたり回復に必要な処置を続けたが回復せず、死亡宣告された。
その「死亡」20分後、再び自発呼吸を始め、退院も間近の予定。専門家の話によると「死亡宣告は妥当」、「それにしても心停止した患者が心肺蘇生もしないのに生き返ると言うのは考えられない」。

だそうだ。
(ところで、専門家が宣告の疑義について特に述べた話が掲載されてないのに、見出しや記事には「専門家は”判定”疑問視」とか書いている。なんかこういう胡乱な書き方はねぇ。まあいかにも権力者ではある。)

医学上の事はよく知らない。が、一つだけはっきりとする事がある。それは、

人は生死の境目を知ることが出来ない。

孔子じゃないけど「わしゃ生を知らん。だから死も知らん。」というわけで、そのはざまも、とうぜん知りようが無いのだ。

これについて我々が(医療関係者も含めて)やっている事は、
実は生き死にを決める事ではなく、「生きていると認める」「死んだこととする」という約束事・文法なのだ。

その約束事は、いささか乱暴に言い換えれば、
「生きてる」とされれば「その体を壊してはイカンよ」と言うことであり、

「死んだ」とされれば「まぁ切ったり焼いたりしてもいいですよ」と言うことである。

約束・取り決めである限りは、その決まりを変える事もアリ、になる。法規と同じ。

なぜ「脳死」が「(人の)死」とされるようになったか。
いかなる要請によってそのような議論が起こったのか。

どこら辺までを「生きている」事としたいのか、
どこら辺からを「死んでいる」事としたいのか。

今回の出来事も、脳死「問題」も、生死の境界線を知る事が出来ない、からこそ起こり得た話だったのだ。

 022「マルチ

「なんにもしなくても資金が倍になる」との文句で会員を募り、設立から2年余りで多額の資金を集めた健康食品販売会社が、結局倒産。出資金も戻ってこなくなって、会員、怒りの声。マルチ「まがい」だってさ。

マルチ商法。


ネズミ講だとか、その手の商売の構造について、いくら説明を聞いても、私はその感覚がうまく分からない。その手の勧誘を受けた事もあるが、結局何が良いのかさっぱり分からないので、手を出しようもない。


どこが分からないのかというと、
一つは、その商品、その商法、に金を出す人間が、いつまでも無制限に増え続ける事を、無意識的にも前提としている事。これが分からない。
だってあーた、品質やウマミを強調されたからといって、興味無かった物に金だす人は、あんまりいないと思う。

カネが欲しくて勧誘する当人がケチな癖に、なんで他人になると簡単に金が出ると思えるんだ?!

もう一つは、家を担保に入れたり、旦那のボーナス使い込んだりしてまで、どうしてそういう「投資」をするのか。端的にいって、なぜそんなにも
「カネ!」なのか。

言われるかな。
「そんな事言えるのは、あんたカネに余裕があるからだよ。」

そういう君だって、そんな「商売」に大金突っ込む余裕があるでしょや?担保に入れる家があり、使い込める財産があると言うことは。

余裕がない生活とは、それどころじゃあない。考えなくても分かることだ。

「お金は魔物なのよ。」こんなところかな。

しかし、「魔物」と思うその事によってそれは魔物となる。
カネに「カネである」以外の何かを感じるということ。


そういう現に無い何かを感じる人がたくさん集まると、世にも不思議なことを起こすから、やっぱりそれは「超能力」なのかも知れん。

で、ああいう人たちに聞きたいんですけど、

不幸になってまで手に入れたいほど、カネっていうのは、そんなに良いものなんですか?

 023「質と量

良く生きた人が早死にしたり、損したり、
良く生きない人が長生きしたり、得したり。

惜しむ惜しまないはともかく、ひょっとするとそれは、ある救いを覚知させるかも知れない。

なぜなら、その抗えない事実が、
人生において「質」と「量」とが無関係である事を我々に語るからである。

生きようは、質。
命の長短は、量。

救いというか、端的な事実認識というか。

よい人が、長寿も名声ももたらされず、あるいは災害に遭い、
悪どい者が、時には財を蓄え、力を振るう事もある。

それは、それ。

善悪のその価値は、その人の魂においてのみ、その姿を現わす。

その巡り合わせのデタラメさは、
質を整えたからには、量が伴わなければという、息のつまるような計算から、人を解き放つ。

 024「理由

女の子の知人と電話で喋っている内、彼女が付き合っている相手についての話になった。

その彼氏にはまるで考えが無くて、尊敬出来る気分になれないという。

彼は色々と不運な境遇を経てきているらしく、

「オレがこんな風なのは、こんな不幸な目にばかり遭ってきたからだ。」

そうのたまうらしい。で、彼女は、そんな彼に我慢をしてきたのだそうだ。

で、私はこう答えた。
「付き合う付き合わんは勝手だし、それに口をはさみはしないけれど、
どうなんだろう、互いに尊敬する所がなければ、言い換えりゃ、魂に愛しうる何かがなければ、それは体だけの繋がりでしかないよね。

それに、こういう境遇だからこういう不幸になった、っていう言い方は出来んでしょ?不運に打ちのめされて、もがいて、考えて、そうやって芳しさと自信を付けてきた人を何人か知ってるよ。そう言い訳してますます不幸になろうという奴はわしは嫌いだな。

どっちにせよあなたの人生だからね。だあれも自分の代わりに考えてはくれんよ。

というか、自分自身で答えをすでに知っとるだろう?」


ああ、また言っちまった。

「その人がそういう性格である」理由は、
「その人がそういう性格であるから」としか言いようが無いのだ。

年齢国籍学歴肩書境遇収入性別趣味嗜好…
んなもんで、その人、その魂がそうである事の、いったい何が説明出来るもんですか。

出典をはっきり憶えてないけれど、炯眼たる池田晶子氏はこんな事をいっていた。

ならば、属性の枚挙によって『自分』を説明してみよ。



彼女の幸不幸の責任は、彼女自身でしか取れないのである。
彼女がどのような答えを出すのかは、これを読むあなたの想像におまかせ。

 025〜仏教用語ときほぐし〜「密教」

当山は真言宗という仏教の寺である。
弘法大師空海が開いた真言宗の教えは、密教(みっきょう)といい、従前の仏教各派の教えを顕教(けんぎょう)と呼んで、それらとの真理認識のあり方の差異を示唆している。

「顕教」とはあらわに説かれた教えである。
対して、「密教」はあらわには説き得ない、秘密の教えである。

この呼称が排他的なイメージを喚起することから、またそのもたらす結果を「現世利益(げんぜりやく)」とうたった事も手伝って、一般には沢山の誤解があるようで、
なんだか、
欲得のメリットをもたらす呪術のように勘違いされてしまう事もある。

仏教とは、もともと、物事の本質を知る事によって、自由に、幸福に生きる、知の教えである。

どうやって本質を知るかが、説き顕わされてきた。おびただしい言葉が語られ、記された。(私はめんどくさいからあんまり沢山読んでない。読まなくてもその存在は容易に想像出来るけど。)

しかし、相手は無限の世界である。それを全て解説するには、バベルの図書館をもってしても無理と言うものである。

で、密教は視座を逆においた。

「あらゆる事象が、それ自体本質である」

本質とは、どこか特別な場所や手段の内に隠されている訳ではない。

いつでも、どこにでもある、というその事によって、秘密。

ありとあらゆる事物が能弁に語りだす。

だから、密教では文字による言葉のみならず、行動することのその価値をはっきりと暗示するのである。
「まずはやってみんしゃい!」

同時に言葉が無限を包摂するということでもある。
真言。言葉の真実。


密教は顕教と対立するものではない。しようがない。

顕教は密教を予覚させ、
密教は顕教を包括する。

例えるなら、音楽と楽譜の双方向の関係。

 026「誇り

以前、アメリカの例を引き合いに出して、自由というものが、分捕ったり奪われたり出来るものではない、と言う事を書いた。そんな不自由な自由は無い、と。

で、わるいけど、またもやアメリカの例。べつに恨みは無い。たまたまだ。
在米の知人のメールによると、NYが攻撃されてからの話だが、このところ、報復戦争に対する批判が封じ込められる風潮に加え、

「proud to be American」

てな感じの文句を、あちこちで見るそうだ。「アメリカ人たる事を誇れ」

ここら辺でもうお分かりだと思うけれど、アメリカだけの話じゃあない。

「民族の誇り」「○○家の誇り」「×大生としての誇り」「△△憲法を持つ事の誇り」

誇る。という感じ方は、「それをもって自信を感じる」。そんな気分であると思う。
でもどうだ。上に挙げたような例は、果たして自信にかかわるものだろうか?

あれらの心の動きはどれも、恨み、見下し、他罰的で、そのどこに誇りや自信があるというのか。
自信が無いから、自分に価値が無いから、他の何かによっかかって誇りにしようとしているだけではないか。
そして、それらが新たな戦いや差別の影を吐き出している事に、どうして気付こうとしないのか。


勘違いして欲しくはないのだが、私は誇りを持つ事がいけないと思っている訳ではないし、その属性が、例えば日本人であるというような事も否定しないし、現にある文化の優れたものについては驚嘆し、賞賛を惜しまない。

むしろ、誇りは当然あってしかるべきだ。
ただし、それは自分以外の何かに求めるのではなく、自分に価値を持つ他には絶対できない事だ。


「どうやって自分に価値を持てばいいの」って?
ええと、まずその求められる価値がどんな
ものであるかを知る事が必要ですね。

価値とは時代や地域によってその価値を失わない。だからこそ価値。変わるのは価値「観」。

「だから、それは何だ?」
それはですねー、長くなったのでまたこんど。っていうか自分で考えてくんさい。

一つだけ付け加えると、自分に価値を有し、ほんとに誇りを持った途端。
それは誇りでも何でもなくなるはずです。なぜならその誇りの根拠たる価値は、特段「自分の」ものではないから。



なんだかね、あーいう話を聞いて思うんだけど、
恋人の写真を持って歩く事で、やっと恋人との絆を覚えるようなもんか知れんね。

 027〜携帯メール対話 〜「生きる」

朝、の携帯に、友人、紫苑からメールが届いた。
以下、夜まで仕事の合間をぬって交わした、互いのやり取りを、ほぼそのまま掲載する。



紫苑「おはよう。きのう読んだ本の中に『人は死を恐れているのではなくて、死にいたるまでの生を恐れているのだ』って言葉があったよ
私「おはよう。ナルホドね。必ず死ぬのに誰も死を知らない。という事は、生そのものを、存在することを恐れるのかな
「うん、そんなような事が書いてあった

「生を恐れたら、んじゃ人はどうしたらいい?
「生きるのをやめる(笑)…そうすると『じゃあ生きるってなに?』ってなるよね… あ、思考が停止しそう f^_^;」
「話を戻そうか。恐いものは、何故恐いんだろう?
「『自分にとってわからない』もの、『得体の知れない』ものだから。」
「そだね。んじゃあ、その『分からない』を何とかするには、まずどうしなきゃいかんかな?」
「考える、想像する?行動する…まず、知ろうとすること?」
「んだんだ。ともあれ生きるのを止める訳にはいかなくなったね(笑)。では何について、考えようか。何を知ろうか。」
「全てのことについて!といっても世間で話題になってる事とかではなくて…。言葉にするって本当に難しい

「難しいね。じゃ逆に考えりゃいいさ。世間で話題になりそうな事とは何だろう。」
「どうすれば楽してお金が入るかな〜。今の流行は?どうすればもてるだろう。あの人の服装どう思う?『なんかいいことないかなー』。」
「では、それらの損得勘定が、考えるのに値しないのは、なぜ?」
「直接『生きる』こととは関係ないことだから。」
「『生きる』自体にじかに関わる事を考える以外に、生き死にの恐怖を乗り越える方法はない訳だね。ところで、生きる上での価値とは何だ。」
「価値…なんだろう。ちょっとずれるかもしれないけど、考え方、ものの見え方は、その人の財産だよね?」
「うん。考え方、ものの見方は良きにつけ悪しきにつけその人の財産だ。それは何を生きる価値とするか、という判断のあり方だね。」
「そうだね
「価値のある『生きる』は幸せということでいーかな?
「そうだねー私も含めて、一体どれくらいの人たちがそういう風に生きることが出来ているんだろうね。」
「気付いた人は出来るんじゃない?価値を認める対象が価値なのか、価値そのものが価値なのか、どっちが本当の価値なのかを。」
「そうかー、そうだね

「長い問答疲れた?」
「いや、悲しいけど久しぶりに『ちゃんと考えた』気がする。スッキリ
ありがとう!」
「続きはいいかい?(いぢわる)」
「今からご飯

「了解これだけで夢甲羅が一本書けるよ。面白かった、ありがとう
「私も楽しかったよ!
またやろう♪」



携帯メールでの対話という制約に加え、私が結論を急ごうとした事などで、こうやって見返してみると、正直にいえば、煎じ詰め切れない所もあるけど。

今後もこんなメタフィジカルメール交換が出来れば、また載っけていくつもりです。

 028「丸儲け

私が「丸儲け」について口にするとしたら、決まっている。アレである。

すなわち、
「坊主丸儲け」

ボーズマルモーケ!
本人のいない所で吐き捨てるように口にされ、
時には目の前で叩き付けられる殺し文句。

でまあ、実際の所どうなのか?と問われれば、私自身に限った話で言えば(ひとの事は知らない)、本当に丸儲けなのである。うん丸儲け丸儲け。正確に言えば丸儲け途上であるが。

た、だ、し、
その儲けの内容は
「坊主丸儲けだがや!」と罵る人が思ってるような物ではない。
恐らく、そう言う人が考えてるような事はこんな所だろう。つまり、宗教法人に対する税制上の優遇、とか、高い「布施」貰いやがって!とか。
まあ大人がそう言えば、自ずと子供もそうなるのだろう、私も兄も子供の時はよくいじめられた。(特に兄は無茶苦茶やられたそうだ。やはりその頃も学校はほったらかしサービスだったらしい。)まあ、その自分も苛める側に回った事もあるので、一概に被害者ヅラ出来ないけどね。

仮にそれらの「おトク」があったとして、その程度で、何が丸儲けなんだ。
丸儲けというからには、失う事なく全てを手に入れるのでなければ、丸儲けとは言えないのである。丸儲けとは、宇宙まるごとを掌中にし、価値そのものを自在にする事である。言い換えれば、真理だ。カネで真理が買えるかバカモンが。

おっとこれでは売り言葉に買い言葉、ケンカ腰である。
あれらの誹り文句は、受けるだけ受けて、宗教者のなすべき事をしてこなかった、幾らかの僧侶に対する不信があってのことだから、仕方ないといえば仕方ない。

もともと宗教というのは、存在している事の身も蓋も無さから、何を宗(むね)として生きるかを考える事だ。だから「宗教的である」ことは、必ずしも特定の職域や生活形態に頼らなくても出来るのである。かつて、たまたま、巨人がいた。釈迦だのキリストだのムハンマドだの弘法大師だの、それらの人の言葉と生きざまに人が集まって、現在あるような宗団・教団が出来たに過ぎない。


だから、わざわざなんとか教の信徒や宗教職につかなくても、丸儲けは可能だ。言い換えれば、なんとか教に熱を入れていたり、宗教職にあっても、その人がそういう宗教性を持っているという保証はどこにもない。ある者は、テロ起こしたり、カネや権力欲しさに躍起になったりしてるし。

真理、本質を知ろうとするのに、幸福や価値を持つのに特別な条件は何一ついりません。

ただ、「何故?!」を、手ぶらの考えによって迎え撃つだけ。

 029「選択

いま、ちょっと自分に言い聞かせるようにこれを書いている。

私個人にあった出来事を話すのが本意ではないので、一般化していうと、

時にはあなたにもあるだろう。家族や恋人への不満、仕事や境遇での不満、その他、ありとあらゆる現状によってもたらされる不服、などが頭をムックリもたげる事が。


でも仕方がない。あなたが選んでそうしているのだから。

「何いってんだ、こんなつもりではなかったんだ。好きでこんな事してるワケじゃない。」

そう仰るかも知れない。だったらどうしてその現状から動き出そうとしないのか。

「そんな事今更出来っこないよ。」

ならば、その状況の連続の中でやっていくしかないだろう。不満を口にしてもそれは構わないと思うのだが、苦しむあなたは何ひとつ変わらない。

こんな事を考えていて、ふと思い出すのだ。キリストが「私は家族や友人をバラバラにするために来た」といい、家族が家を飛び出し、お釈迦様の元に去って(文字どおり出家者)いく様子に、「あいつら人さらい集団だ」と罵られたのを。

選ぶということは、すなわち捨てることだ。
失うということは、すなわち得ることだ。

その逆も然り。


「人は、しようと思ったことしか、することは出来ない」とは、さる炯眼の言。


 030「百人の村

街を歩いていて、パルコの本屋に寄る。
平積みされた新刊書の中に、世界63億の人の統計分布でもって、100
人に置き換えてみると、という本があった。
開かなくたって、その志向する所の胡散臭さはプンプン漂ってくる。言う迄もない、
統計で分かる事しか、統計では分からないからである。そこで書かれているような事、導き出したい結論こそ推して量るべけれ。

とはいえ、こっちも人間が出来とらんもんで、開いてしまった。コワイもの見たさかな。


100人のうち、男が何人女が何人、白人何人非白人何人、異性愛者何人同性愛者何人…などから始まって、何人が字が読めず、何人が車とPCを持ち、何人が大学を出、何人が飢えや戦争の内にあり、何人が*%の富を抱え込み…という具合である。

「人をその外的要因で分類すると、こうなりますぅ。」という訳だ。
で、私には、それで何が分かるのかが、サッパリ分からない。いや、ホントは分かっているのだ。そういう外側の色々を数え上げる事で、人を、世界を、「理解」できると信じている人がいかに多い事か。そう、私だってそういう物でなにか「分かった」気になってしまう時がある。

そして、出て来た出て来た、あのセリフ。もぉ声にこそ出さないが、胸中は「キターッ!」って所だ。

「もしあなたが○○○であるのなら、×××である*人の人より恵まれています」

なんだ、そう言われて初めて「そーかアタシ幸せなんだぁ」って思うの?それとも、無自省にのうのうと平和に暮らしているのを後ろめたく思う、とか?

確かにね、無自省なのはイカンとは思うし、あの本を出した人の気持ちも察する事ができる。あんな方法を採ってしまった無邪気さはあるものの、「省みろ」と。

ただね、惜しい。自省のきっかけにはなるかも知れない、けれども、いくらあの本に書かれてるような事どもを思ってみたところで、自省は出来ない。
自省とは文字どおり「自らを、省みる」だ。

「『自分』である」。この、底抜けをこそ見据えよ。

先達が口を酸っぱくして(しないで)言ってきた。

ソクラテスは「汝自身を知れ」、
仏教は「実の如く自心を知れ」。


世界の、宇宙の平和と幸福は、コレしか無い(笑)


帰宅して、夜、電話で友人K.K.(リンク参照)
と喋っていて、その本のことに触れたら、

「だいたいねー、世界ってのは『100人の村』じゃないんだよ。」

あははは、こりゃ一本とられた。


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