011「満干」12月27日
012「人形」12月28日
013「結局は」12月30日
014「今ここ」1月2日
015「節介」1月5日
016「クローン」1月7日
017「ご飯」1月10日
018「タダ」1月12日
019「成人」1月15日
020「仏」1月19日

 011「満干」
以下の話は、新聞やテレビなどでの報道をきっかけとして話を始めるが、たとえ報道の内容に間違いがあったところで、この試論がためす内容の普遍さは些かも揺るぎないであろう。この話が誰のケースであろうと構わなかったのだから。

潜水家のジャック・マイヨール氏が首を吊って自殺したという。

「孤独だ」と漏らしていた、のだそうだ。

映画『グラン・ブルー』をビデオで観た他は、詳しくは知らないので、氏についてちょっと調べてみると、

記録の更新。
肉体の鍛練。
賛辞と名声。
望み、かつ、獲得した生活形態。


これらを得て、なお寂しく、自ら命を絶った。

全てではないにせよ、多くの人がそれを望ましいと感じ、手に入れようとするであろう「価値」を手に入れて、である。

しかし、彼自身は、
結局それらが「価値」とはなりえない事を知った時、絶望に突き落とされたのか。

まさに潮の満干のさまのようである。けれども、滔々たる大洋のような悠久さを、我々の人生は持ち合わせてはいない。

「価値」のない「生存」。言い換えれば「ただ生きること」には価値がない。

生存のみの無価値に絶望して自殺する。
生存のみの無価値を知らぬまま、生存にしがみつく。


どちらも、無価値なはずの「ただの生存」にこだわっている点で、コインの裏表である。

掴んで採ってきてくっつけられるものが、生きる価値でないなら、
あなたにとって、価値とは、どのように、あるのか。

・・・

金品、名誉など、外からくっつけられるような所を全て取り去って、なおも残るある一点。
無限の広がりを持つ、ある不動の一点。

外から注いでけっして満たす事ができず、時の流れの中で干上がってしまうという事もない。

それは、
生じもせず、滅しもせず。

 012「人形」
(当寺院・笠寺観音では人形の供養や処分は一切しておりません。)

おい、またかよぉ。

たまーにガックリさせられるのは、境内で、眼の届かない物陰などに、仏具やら人形やらが捨てられている時だ。現場を見つけて注意する事もある。

周りの視線を気にして、コソコソと。
或いは夜のうちに、捨てに来て、小走りに逃げ去るさま。眼に浮かぶ。

人をゴミに出せばそりゃ問題になるだろうが、人形ごときをなんで自分でゴミに出さないんだ。そういうのを不法投棄っちゅうんだ、迷惑行為だ。シレモノがっ。

と罵ったところで伝わるとも思えないので、ひとつ考えてみる事にしましょう。

「眼が付いてるからゴミに出せない」ほーほー。
「人形にも命があるような気がして、カワイソウで捨てられない」そういう感じ方もあるね。
「祟(たた)りがあったらやだな〜、みたいな」なるほどぅ。

眼か。それで生き物のように思える。「命があるような」気がするんだね。ではきくが、
私達は本物の生き物を殺し、その屍肉を食らって生きているわけだが、じゃあその残骸、牛の骨や魚の頭を平気で捨てているじゃあないか。

「人形は思い入れがあるの。魚の頭と一緒にしないで」
そうか。だからこそ、それをコソコソ捨てるというやり口が、思い入れある品に対する態度ではないね。そも、思い入れがある物は無闇に手放そうとは考えない。それがまさに「思い入れ」という事である。

その人形に命があるのかないのか、は問題にならない。それはあなた自身が感じる事であって、他人がどうこう決めるものではない。問題は、
命があると思うのなら、それに相応しい儀礼をして葬るもんだ。ないと思うのなら、それはゴミだ。他のゴミと同じく、自分で捨てよ。

そこら辺をちゃんと自分で考えようとせず、「捨てちゃダメと言われたから」とか「だってワカンナイもん!」とか「ナントナク恐いような」という言い訳を口にして恥じる様子もない。でも、金勘定はしっかりしていて、ただで人に押し付けようとする。見ていて体中からヘナヘナと力が抜けるのを感じる。

知らないなら考えろよ。なにを開き直ってるんだ。

で、最後に「祟り」。

昔は、そんなもんは無い、と思っていたが、やっぱりあるのだ。

あるある、おおあり。

自分にとって本当に大事なものと、そうでないものとの見分けも付かず、その扱いを知ろうともせず、悪をなしてそれを悪と知らず、何も考えてない事を言い訳にする。当然そんな根性が自分も他人も幸せにできるはずもなく。

これを祟りといわずしてなんと言いましょう?


(追記)
知人から貰ったメールには、この文について次のように述べられていた。同感なので転載する。

「捨て猫みたいなもんかなぁ。自分で捨てる(殺す)と確実になくなってしまうけれども、そこで曖昧な行動をとればなんとなく責任が軽くなるというか。
問題を先送りにするのは知恵といえば知恵なんだけどさ。でも、
見ず知らずの人の親切に頼るのはさすがにどうかと。
自分の子供を放置・餓死させるのも根っこは一緒かもね。」


 013「結局は」

仕事の中で、お寺や仏教の事で説明を求められたりして、私なりに答えます。
すると、よく言われるんです。

「結局、気の持ちよう、って事だね」

そう仰る時、顔を見ると、大抵納得頂いてはいないようです。
(やっぱりそうきたか。しょせん気の持ちようだろ?そんな事言ったら、何だってそうじゃないか。坊主の常套手段だ。)と思われているのかもしれません。落胆したような、呆れたような表情を前に、私も話しがもう少しうまく出来たらなあ、と思います。

困ったな。

なぜ困るのかというと、その言葉の示すとおりだからです。
「結局、気の持ちよう、って事だね」
いや、それだけなら困る理由にはならないのですが、どう言うわけか、そう言いつつも、その「気の持ちようを」実際に持ち替えようとはしてくれなさそうなのです。で、私は口をひらけなくなる。

恐らく、「気の持ちよう」は現状打開に全く無効な誤魔化しだと思っているのでしょう。だからその手の考え方は、信じるに値しない。と。

でもはっきり言います。それはちがう。

「気の持ちよう」つまり「心のありよう」の力は信じたり信じなかったりするというものではなく、
あなたにとっては
(この留保は冗長だけれど)「気の持ちよう」「精神のあり方」を除いては、なんにもありません。ほんとうに。

ただ、げんにそうである。それだけ。

気持ちいいのは、「気」「持ち」が良いから、きもちいい。
「気」の「持ち」ようが悪い時には、何をしようがしまいが、気持ちいいはずなんかないじゃありませんか。

「幸せ」という気分を持った時にだけ、人は幸せになれる。
どうしてかそういう風になってるみたいです。

 014「今ここ

中学生の時に教えてもらった、ある歌。

ときはいま ところあしもと そのことに
うちこむいのち とわのみいのち


知っているつもりで、忘れていることすら、忘れている事。


あなたには「現在」しか存在しない。いつであっても。
過去は、既にこぼれ落ちていったものであり、
未来は、まだあなたの手のひらに舞い降りて来ない。

あなたは、あなたが今いる場所とは別のところに、同時に立つことは出来ない。
歩くにせよ、飛び跳ねるにせよ、いま足が着いているその場所からのみ、進み始める事ができる。

今、ここに在る、まさに「それ」を、その瞬間瞬間を、どのようにあなたは刻むのだろう。

瞬間とは、永遠である。

永遠は、瞬間の運動であり、
瞬間は、永遠を所有する。

 015「節介

よせばいいのに、人のする事にくちばしを入れる人がいる。

あるいは、人の振舞いが気になって気になって仕方のない人。

「あんたのこういう所はこうすべきだ」とか「自分がこうしてるんだからお前もやったらどうだ」とか「あいつはこんな所がイカン」。しまいにゃ「お前の為に言ってやってんだぞっ」
きかれもしないのに、よくもまあ。

かくいう私じしん、以前、人にそういう余計なお節介をして、厳しくたしなめられた事があるのだ。うはははは。

有り体にいえば、弱い。と感じる。自分を見据える事から逃げている。余りにも漠然とした「自分」という事を掴もうとするより、他人をつついたり、あげつらう方が楽ちんだからか。

けれども、それはやっぱりいつまで経っても息苦しくはないだろうか。他人の呼吸でもって息をしようとするようなものである。

「逃げている」と書いたけれど、「自分である」という身も蓋もない現実とその謎から逃げられるはずもないわけで、そんならいっちょ向き合ってみるか、という他に我々に術は無いのである。

まあつべこべ言ってもアレだし、だいたい、
人の暮らし向きや考えが気になる、なんて随分メンドッチイ事ではありませんか。

それにしても、この『夢甲羅』なんて、「考えよう」だなんて、人によっては余計なお節介もいい所なんだろうな。でも書かずにいられないのは、身も蓋もない人間の謎が気になって気になって仕方が無いからである。


 016「クローン

ええと、確か人間のクローンを作るのは、法律上禁じられてるのだったと思う。

まあ、間違い無くクローン人間は生まれるでしょう。だって、禁ずるということは、それをしようとする人がいるからである。「道草をしちゃだめよ」とおんなじ。

さて、なぜ禁止なのか。

クローン人間を使っての犯罪や、DNAを利用した個人の認証の混乱を避けるため、だろうか。それならそれで、クローン人間じたいは悪ではない事になる。

問題はどうやらそれではないだろう。

「自分と同じ人間がいるなんて気持ち悪い」

「そんな人間を誕生させるのは神をも畏れぬ行為だ」
だから「倫理的に問題がある」

少し冷静になればすぐ分かる事なのだが、他人が自分と同じ遺伝子を持っているというだけで、その
「他人」が「自分」であるはずがないではないか。一卵生双生児だってそうでしょ?

たとえ同じ名前を付け、同じものを食べさせようが、仮に同じ環境において育てる事が
出来たとしても、別々の意識が融合して一つになったりはしないからである。

「その人」は「その肉体」だと信じているから取り違えてしまうのだろう。

で、中にはその事を考えてこういう事を考える人が出てくる。

「脳があるから問題になるのであって、じゃあ、脳でない臓器を複製すれば、移植用に使えるじゃん」

まあね、それはそうなのですけど、結局
「からだ」に関わる事ばかりが大事なんだよね。別に反対はしようがないけどさ。食べるために養殖や栽培やってるのとかわんないからね。

クローン人間に、反対の人も賛成の人も、クローン人間が存在することが、なにか特別な事だと信じてる。

作る意志と、作る方法があれば、できる。それだけの話。

そんなこと問題にする暇があるのなら、もっとすべき事があるだろう。

「神をも畏れぬ」?

なぜそんな事が言えるのだ。その「神」を考えた事がないのに。

 017「ご飯

私はまだ子供を育てたことはないけれども、それは、身体についての「飼育」と、精神についての「教育」とをあわせ持つのだろう。

体を育てるのは食べ物である。ご飯。
個体差はあるにせよ、育てる者が、何をどう食べさせるかによって、子供の健康はいくぶんか左右されるだろう。

では、
心を育てる「ご飯」は何か。
それは育てる者の生活そのものである。それはしかし貧富や地位の話ではない。

言い換えれば、
それは「言葉」である。

「それは
何か。」「どういう事か。」
なぜ、それなのか。」「なぜ、それでないのか。」

ある事に対して使われた言葉を、子供は、聞いているのだ。
受け止めた出来事にせよ、自発の行為にせよ、それをどのように切り分け、認識しているかを子供は見ているだろう。
そこにウソがあるかないか、その境目が生命線だ。


不当に得する事を
「いい事」と言ってはいませんか。
自分が満足したくてした事を
「お前のためにした」と言い訳してはいませんか。
ズルイ話を
羨んで語ってはいませんか。

赤ちゃんだってちゃんと語れば、ときには言葉が通じるそうだ。
嘘じゃありません。

げんに、あなたはそうやって言葉を獲得したのだから。

 018「タダ

「タダだったら貰っとかなきゃソンだ!」
「なんだ、金がいるのか!」

けっ。

代償を払いたくないモノと言うのは、つまりタダで貰えなかったからといって憎む筋合いではない物である。要らないもの。
要らんモノをわざわざ欲しがる、のは一体どう言うわけか。

たまたま貰えた物が、いただいた品が気に入った。それはそれで良いとは思う。
誤解を招かぬために付け加えるならば、問題なのはタダならせしめようとする側の問題であって、無償で提供しようと思う人の問題ではない。

どんな物でも目の前に在るまでにゃ大なり小なり手間がかかる。
それが欲しいわけではないのに、タダなら貰おうとするのは、人に代償無しで手間暇かけさせるのがトクだと思うからである。

「ただほど高いものはない」

この警句は事実である。

けれどもこれは、タダの物の見返りに、もっと高い物をとられる羽目になる、という「シメシメ」と「ウッシッシ」どころの話ではない。


品性が、さもしく、いやしいこと。
これが、大損。

代償の払いようが無いもの、換金出来ないもの。
を持ってこそ、初めて生きる上での価値であり、幸せではないのか。

それが何なのかは、善く生きようとするあなただけが知る。


 019「成人

外に出ると、おや着物姿。
キレイというか、色数の多さばかりが目立つ姿もある
けれど。
そうか、成人式なのか。

それにしても、成人「式」とはなんだ。殊に地方自治体がそれを主催するというのは。
なんでもその日は、連休を増やす都合で決められるように変わったと。もともとそんなに大事な日ではなかったようだ。


実際のところ、その式典に出席しないにせよ出席するにせよ、人も或いはボクもお嬢も、誰ひとり式典一つで「成人する」とは思ってはいないと思う。

主催者側(つまり自治体)も、どうしてか出席者を増やしたいらしく、ちらとテレビで見れば、
「東京ディズニーランドに招待して式をする」「出席者全員に5万円贈呈」とか、いろいろと媚びているようだ。脱力だぜ。

かたや
「爆破予告」とかもあるとさ。これも凄い。
何が「凄い」かって、だって、お仕着せの、おそらく
退屈な式典ごとき一つに、それほどの情熱を燃やせられるというのは、凄いというほか無いだろう。媚びるオトナとタメをはっておるねえ。

不毛なくせに笑わせてくれるネタがあったので、つい前置きが長くなってしまった。

さて「成人」。
「人と成る」にせよ、「成れる人」と読むにせよ、

もしくは「一人前」という言い方を考えるにつけ、
そこでいくらかの勿体ぶった調子で強調される
「人」とは、どういう事をさすのだろうか。何をもってヒトは人か。

十把ひとからげに括られて呼ばれる子供、
「子・ども」との違いは何か。

二十歳になったから急に大人になる訳でもあるまい。セックスしようが酒飲もうがタバコ吸おうがギャンブルしようが変わらない。着る服を変えようが、人を殺してみせようがなんも変わらんのである。


それが、法律や他人の御墨付きなんかではない事だって、もう明らかだ。

年令もね。べつに十七であろうが七十であろうが、ねえ。

肉体に関わる条件は、何ひとつ、あなたを真っ当に「人」にしてはくれないのだ。

「人である」を知ろうとする前に、主張したい人、要求したい人はいて、ま、彼らにしてみれば、そうするしかないのだろうけれど、

せっかく言語を持ちうる、ヒトでもあることだし、と私などは思ってしまうのだ。

 020〜仏教用語ときほぐし〜「仏」

仏様や神様とは大変ありがたいものです。
賽銭(さいせん)をあげて拝むと、

 儲かります。
 合格します。
 大モテです


これのどこまでがホントでどこからがウソでしょう?


「仏(ほとけ)」とは、

「目覚めた人」「悟れる者」の意のBuddhaブッダの音写、仏陀。意訳で「覚者」。釈迦(しゃか)は仏となって人々を救おうとした。…ここらへんは調べて分かる事。

気になるのは、目覚めるとか、悟ったとか言われる悟りの内容だよ。
ああ、その前に、何のために、悟ろうとしたのか。

目的は、幸福。
しあわせのために、苦しみから離れるために
、である。

で、
そのためには「知る」事が必要だ、と。

「知る」とは、
「それ」が「そうである」事を知るということである。
それを知らない人生は不幸だ。

知らない」から、げんにそうで無いものを、手に入れようとして手に入れられないから苦しむ。
「知らない」から、げんにそうで無いものが、そうで無い事を怒って苦しむ。
「知らない」から、げんにそうで無いものは、そうで無い事を認められなくて苦しむ。


ある事が、ある事であるのは、欲求をこえて存在している。

家族も、恋人も、友人も。
国家も、社会も、制度も。
こころも、からだも

認めまいが、それはそうであるし、
許すまでもなく、それはそうであるし、
求める求めないにかかわらず、それはそうである。

それを知るひと。


なあんだ、なんでもない事だ。

みんな、出来る。
幸せに、なれる。


最初のなぞ掛け、
ミソは、あれらが、「そのまま」良い事なのか、どうか。

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