笠寺観音(天林山 笠覆寺)の歴史

(1)開基…善光上人、観音像を彫り、寺を建立する
天平五年(733)(一説に天平八年<736>とも)のある日、呼続(よびつぎ)の浜辺に一本の浮木が漂着した。
それは夜な夜な不思議な光を放ち、付近の者はそれを見て恐れたという。
近くに住んでいた僧・善光(ぜんこう)上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その漂木を刻んで十一面観世音菩薩の尊像を造り、粕畠(かすばた:現在の笠寺より約650m南)の地に、堂を建立し、そこに観音様を安置して、天林山 小松寺(てんりんざん こまつでら)と名付けた 。

(2)『笠寺』の名の始まり…玉照姫・兼平公ご夫妻と寺の復興
建立から百数十年を過ぎて、小松寺の堂は荒れ果てて、本尊の観音様は風雨にさらされたままになっていた。
鳴海(なるみ)ー現在名古屋市緑区ーの長者にこき使われていた女人がいた。
ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様を見て可哀想に思った彼女は、自分が冠っていた笠をとり、観音様にかぶせたのであった。
後日、鳴海に寄った、都の貴族、中将・藤原兼平(ふじわらのかねひら)公がその心優しき娘をみそめ、妻として迎える事となった。彼女はその後「玉照姫(たまてるひめ)」と呼ばれた。
この縁によって、後にこの夫妻は現在の地に寺を復興し、寺の名を小松寺から、「笠覆寺(りゅうふくじ)」と改める。
「笠寺観音」との名で呼びならわされるこの笠覆寺は『笠寺』の地名の起こりとなった。
現在も、笠寺観音では、本尊の観音様、玉照姫・兼平公ご夫妻を安置・おつとめ申し上げている。

(3)鎌倉期の中興…阿願上人
しかし、更なる月日を経て、笠覆寺は再び荒廃してしまった。
鎌倉時代、嘉禎四年(1238)僧・阿願上人の発願によって、再び諸堂や塔が建立され、旧観を取り戻した。
鐘楼(しょうろう=鐘つき堂)に安置されている梵鐘はこの際に造られたもので、尾張三名鐘(おわりさんめいしょう)の一つに数えられ、現在、愛知県指定文化財に指定される。
今も12月31日・大晦日には多くの参詣者が打つ、この梵鐘の音が辺りに響き渡っている。

(4)近代に入って<H22/10/19政識和尚日記に基づき再修正>
幾度かの再建を経て、現在の堂塔は江戸時代に建てられたものであるが、明治にいたるまでには建物、尊像、宝物、什物、土地などの散逸があった。
第二次世界大戦の敗戦のころまでには境内のここかしこに生えていた松の木も戦争や資金難の事情から伐採されることとなった。
敗戦ののちしばらくして住職となる政識和尚は、19歳であった大正年間から各地での托鉢などで浄財を集め、本堂の修繕などにつとめた。
和尚は住職となってからも名士、山崎文次氏などの帰依と協力を得るなどしつつ、瓦屋根の棟に松の木が生えるまでになった本堂の修繕・改修をはじめ、山容整備につとめ、また鉄道整備に伴う移転墓地の受け入れのための境内利用を認めた。
その後、当山は整備・修繕・改修を重ねて現在に至っており、これからも改良の事業を複数行っていく予定である。

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